昭和54年11月13日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 神様は一体、神様は誰の上にもだから同じだという事です。しかしその神様もこちらの力加減で、その比礼が違うとこう申しておられます。はっきりと例えば教会長が朝寝をしておる様な事では、信者がお参りをして来るの早い遅いにも関わると仰っておられるのは、そんなに的確だ間違いだ、こちらの在り方一つだと教えておられるわけですが。私がもうこれは本当にいつもいつも、それこそ常に思う事なんですけれども。
 ここに御縁を頂いた方達が、私のような心の状態になられたら、もう本当にどんなにか有難い幸せな世界が開けて来るであろうかと思うです。第一不安が無くなる心配が無くなる。それはいろんな事がありますけれども、いろんな事が起こって来ても、それに対するそれを処して行くという事が、神様一心でありそしてそれから先は、もう神様にお任せする心がだんだん広く深く、私の心の中に頂けていく。
 こういう状態に皆さんが成られたら、まどんなにか幸せだろう。お金が足りんという事も無くなるだろう。世の中の難儀という難儀が、みんな神愛に見えてくるであろう。もう本当に一切が有難い、と御礼を申し上げる事以外にないという事が、私の心の中に開けてくる。そういう心を皆んなの一人一人が持たれたら、どんなにか素晴らしい事であろうかというふうに思います。もうこれは私が常に思う事です。皆さんも例えば、もう毎日毎日様々な難儀な問題がございます。
 またその様々な問題が、不思議な不思議な働きになっておかげを頂いていきます。昨日は美登里会でしたが、もう終わってこちらに立っとりましたら、お広前に一人若い女の人が参って来ておる。ここへ二、三回参って来た事がある。矢部の後藤さんの親戚らしい。パーマ屋さんになりたいという。何遍も試験を受けたけど出来なかった。それでまあ兎に角合楽へ行ってお願いをしなさいと言うて、まぁお願いに来ておるわけですけれども。昨日御礼に出て来ておりました。
 というのはなかなか学課の方がいつも思わしくないらしい。それで試験の問題集を持って来ました。二、三日前、でこの中の何処を勉強したがよいでしょうかと言うから、そりゃ何処でん勉強せないくもんかい、ち言うて私が申しましたら、どうぞ勉強がなかなか出来ませんから、出来ますようにお願いをして下さい。いついつが試験ですからとこういうわけです。
 それで私は、その問題集をここに置いて、あのう御祈念さして頂いておりましたら、一、二、三、と頂いて真中に、真中にこうやって○を付けて頂いたね。たしかに信心というのは兎に角心次第でおかげを頂くのであり、また一心にお縋りをしておかげを頂くのであり、また例えば百万円の宝くじを買いたい。なら何番のつば買うたらよかろうか、というような事が信心であろう筈はないのです。
 なら試験に行きますから、どこどこを勉強しとけばいいでしょうか、と言う様な事が分かるごたるなら、もうそれこそ苦労はないと思うんです。だからそういう事を教えたりする事が信心ではないのですけれども、私はただそりゃあんたどこでん勉強しとかな、いくもんかい。神様にお願いをしてどこでん勉強しとかなごてと、その私のいう口の裏から、神様はすぐおかげを下さる。だから出来るだけ真中のどころば、一生懸命勉強しときなさいと言うたら、真中からばっかりしか出なかったそうです。
 昨日その御礼に出て来ました。神様ってねそういう面があるんです。だからそういう面では、ひとっつも幸せになれんです。試験に出来た事が幸せするやらしないやら分からんのです。幸せするというのは結局心次第です。なら今日は商売に何処何処と何処に行きなさい。はぁ先生が言われた通りにしたら商売が出けた繁盛した。その繁盛する事が幸せではないです。あぁ繁盛した為に贅沢を覚えた。飲むこと打つこと、買うこと覚えたというような事になったらどうなるですかね。
 人間ってそんな者です、けれどもたまに神様がね、いうなら神の権威にかけても、んなら奇跡を見せると仰せられる。だから私共はその奇跡のこととか特別のそういうおかげの事ばかりを頭に置かずに。親先生のおかげというのは、どこから生まれてくるのであろうかと言うと、私の心の状態を皆さんが見習って下さったり、又は神習うて下さるところの、ところから私と同じような心の状態も開けてくるだろう。おかげの世界も広がってくるだろう。安心喜びの世界もた同じだという事になるのです。
 特別な事をお伺いをしたり、特別な事をお願いをしておかげを頂いくというだけで信心が留まったら、私の願い私の思い本当に私のような心の状態になったら、どんなにか皆さんが幸せになって下さるであろうかと、それに伴うところの、なら商売繁盛であり健康のおかげであり、家庭円満でなからなきゃならんのです。ただその事を願っておかげを頂いて、という事だけが幸福にはつながらない。私の修行中の時分に、もうそれこそ一生懸命話しを聞いて助かると言うので、もう一生懸命話しを聞きに参りました。
 ある時に日田の堀尾先生が久留米の教会に、お話に見えました。丁度夕方までそれこそ一生懸命に聞きました。そしてその晩は福岡の教会で、本部から偉い先生が見えてお話に見えたと言うので、すぐ晩は福岡の教会へ参りました。それをお取次頂いたら、吉木先生が私にこう仰いました。久留米のその堀尾先生の時に福岡も見えとったんです。私が来た事を知っておられたんです。「あんた今日久留米でもお話頂きよったろが」ち言われるので「はい頂きました」。
 「そりゃ大坪さんあんまりの信心ばい」と仰いました。だから本当に吉木先生をして、私にそりゃあんまりの信心ばい、ち言わしめる程におかげを頂きたい。本当にという事はどういう信心をすりゃおかげが受けられるやろかという事なんですよ。話を聞くという事は、どういう信心をしたら教祖が仰るようなおかげが頂けるだろうかと、それでいうなら求道ですね。求めに求めていうならば一日のうちに二回も、福岡久留米をいうなら股にかけてお話を聞いて廻ったという時代がございます。
 高橋さんのところの近所に家具屋さんがあります。有名な家具屋さんです。何とか言ってましたね。あっ田原さん。もう甘木の先生が自分の娘のような思いで行けるのは、田原の家だけと仰る位に、ま甘木の先生の信頼を受けられた御信者さんです。もうそれこそもう本当に難儀に難儀、その時分のお金で甘木の先生が信者にお金を貸しなさったのは、この人だけじゃろうと言われる位にお金を、五円の金を貸されたそうですね。
 いよいよギリギリの時、それからまいろいろおかげを頂いて、もそれこそ親先生任せで、いうならばおかげを頂かれて今日のあの繁盛がある。田原さんも言われるそうです。甘木の親先生が、田原さんお金がいくらいくらいるばいち言うたら、もいつでもこの家蔵財産に、もういつも熨しをつけておると言われるそうです。ま一遍だって甘木の親先生が、そんなら田原さんいくら出さんのと言いなさった事は一遍もない、ね。
 けれども田原さんの心は、いつも全部に甘木の教会に熨しをつけておる、と言う様な生き方をされた。今でもそうでしょうが月に二回づつの御本部参拝がある。福岡から甘木の教会には毎日日参である。この頃からは火事で丸焼けになられたそうですけれども、それこそまた焼け太りで、大変な繁盛をしとられるという事ですが。親先生任せになって、あれだけのおかげを頂かれたという話を、もういうなら三十年前に聞きました。
 だいたい田原さんという人は、どういう信心をなさった方だろうかと、いつも思うておりましたら、その一番難儀な時にです、ちょうど田原さんのところから、箱崎から東公園からずうっと一遍通り廻ると一里あるそうです、店を閉めてしもうてから、いわゆるお百度を踏まれました。その一里の道を。私はもう早速その晩から実行しました。もうその時には椛目に帰って来とりましたから、毎日久留米の教会に歩いて日参をしました。あっという間に参って、あっという間に帰って来よりました。今から思うと。
 津遊川に私がいつもあぁやって、善導寺の御信者さんが、あのうもう洋服屋さんですから、夜遅うまで御用がありよります。もう冬なんかは高ぼくりじゃないけれども、日和ぼくりを履いて、もうそれも道が今のように、アスファルトじゃありませんから、かんじておりますから、もう高ぼくりを履きますと、下駄の音が遠くからするわけです。はぁ大坪さんがまた今参りよる。
 私は小走りのように参ってましたから、はぁ下駄の音が聞こえると言うて毎晩それを聞かれて、そのはあ大坪さんが今夜参りよんなさるなぁち、言うて一家中で話しよりました、という位に有名になる位にお参りしよりました。いろいろ神様からお知らせ頂いておったりして、もう途中で何遍もお試しを受けましたけれどもが、やはりお許しを頂くまで続けさして頂きました。
 それは田原さんがお百度を踏まれたと言うから、こっちはいうならお百度のまいっちょ上んとをと言う様な気持で、もうその事に専念してましたからね、出来た訳でしたけれども。おかげを受けられたという人の話はもう早速実行致しました。そしていうなら久留米福岡を股に掛けてもいわゆる、あちらの話を聞いて又こちらのという事は、どういう事かと言うとどういう信心をしたらおかげ頂けるだろうかと思うからでした。
 私は今、いつっも思わせて頂く事は、昨日竹中工務店と、ここの建築委員の方達の話し合いが、月に一回づつございます。昨日それでしたが、此頃から竹中さんが御本部、それから玉水それから泉尾、の御建築を下見に見に行かれた。それでいっぱい写真を取って来ておられるのを、昨日ちょっと見せて頂きましたが、そりゃ見事な今度、泉尾に神徳館ですかね。親先生のお部屋お住まいが先生はいらんと言われたそうですけれども。まあ信者が話し合って建てたという事でございますが。
 そりゃもう見事なお家が出来ております。それを見せて頂くにつけて、思わせて頂くのはです。どういう信心をなさりゃ、あれだけの御比礼が輝くだろうかと思います。恐らく名実共に日本一でしょうが。あゝいう御比礼がどこから生まれて来るであろうか、もいつも先生の御信心を、まいうならば求めております、分からない分からないけれども求めておる。そして最近ではなかろうかと思う事はです。先生がそれこそ世界を股にかけて世界中の、いうなら氏子の助かりの事を願って。
 もうそれこそ昨日がアメリカなら、明日はヨーロッパというふうに、それこそ世界を股にかけて、そのお話をして廻られるというか、そういう宗教関係の御用に打ち込んでおられます。もう私よりも十多いですから、もう七十五になられるわけでしょうか。こちらはもうヨボヨボしとるとに、まぁだカクシャクとして、それこそ世界中を股にかけて、誰でも世界総氏子身上安全世界真の平和を、金光教の信者ならみんな祈ったり願ったりしております。けども実際にです。本部でも出来ない事をです。本部自体でもね。
 海外布教海外布教と、なら言うても海外布教に、力を入れようとは全然致しませんですね。今度の私のここの南米布教でもそうでした。ところが泉尾の先生は、もう自分がもう言わば率先して、世界中を股にかけて、いうならば祈りと、実際とが一緒になっておるという、あの勢いにおかげを受けられるのであろうと、私は思うた。写真をこうやって繰らせて頂いとりましたら、大きなもう恐らくこの障子の半分位あろうごたる、大きな額だろうと思いました。
 その写真の模様からそれにどこかの方が、まあちらの先生に贈っておられる字が書いてございましたが、何じゃったですかね。「勇ましい魂」と書いてあったかね。そして照り輝くとか何とかというふうに書いちゃったでしょね。いうならば恐らく泉尾の先生の、あの信心ぶりというのを見た方が、ある宗教者のお坊さんか何かの字じゃないでしょうか、贈られたんです。も世界のあらゆる宗教者と、お付合いをしとられますから贈られたのでしょうけども。
 あのお年であの勇気に、それが世界中に照り輝くという意味の事が、大きく書いてあるのが部屋にかけてあるのを写真で見せて頂きましたが。確かにそうです。私はあの先生の信心というのはこれだとまぁ思わせて頂いた。あの勇ましい魂。それがいうならば世界に輝き渡るという意味の事が書いてあったです。それでんなら世界総氏子の事を祈り願われて、一生懸命なっておられるけども、それが世界総氏子の上にそういう働きが起こっておるかどうかは分かりませんけれども。
 この頃はアメリカで三百五十名か六十名かの、宗教者だけの大会がございました。その中で先生が音頭を取っておられるところが、写真に出ておられましたがね、その世界三百六十人の人達に、起立を言っておられます。そしてどうぞ皆さん手を挙げて下さいと言っておられます。そしてどうぞその上に挙げた手を握り合って下さい、というふうに言っておられます。私はそれを聞いて嬉しうなった、というのは私が大阪で話したのが、それだったからです。
世界の平和世界の平和と言ったって、ただ横に繋がっただけではなりゃせん。自分自身が、所謂神様の前に無条件降伏して、その手を上で握らなければ駄目だ、という事をそのまま言っておられるのだなと私は思いました。嬉しかったですね。私の言うておる事が世界中の宗教者に、そうやってあのう恐らく宗教者である限り、その意味が分かるだろう、と思うのです。ただ横に繋がり合うただけではでけん。いうなら我無力である。いうならば神様の前に無条件降伏しなきゃ駄目だ。
 そしてそれを握り合う手でなからなければ、世界真の平和は望まれない。そう言う様な事をですね。いうならば誰よりも先がけて、その世界中に広めようとしておられる。それが広まる広まらんは別としてです。その勢いに神様が、あの泉尾にあの御比礼が輝いておるのであろうと、真似が出来ません。でもだからこれは私なりの事でございましょうけれどもです。んならそういう勢いのある信心を、人が思いもつかないようなところに、大きく広くいわば広げていこうね。
 和賀心時代をいよいよ世界にという、その手立てをですね。もうそれこそまぁどんなにお金がかかろうが、もう身体は健康の上では、こんな状態で出来ませんけれども、そういうま大きな願いを持ってそれを勢いを持って、その事の実行に当たりたいね。私はねもう私よりも力を得ておられる、私よりも大きな御比礼に輝いておられるお教会、ならそれを一生懸命で勉強します。
 そしてあの御比礼の元が、どこにあるだろうかと思って少しでも分かったら、それを実行に移します。皆さん私が聞いて頂きたいのはそれなんです、ね。私が常に思う事。それは私のような心の状態、私のような生き方を身に付けておい出られたら、皆さんも私と同じようなおかげが頂かれるであろうのに、というふうに思います。ね。決してただ不思議なおかげとか、只おかげおかげを追求するのではなくて、なら親先生の信心のどこからあれが生まれてくるのであろうか、という事をみなさん研究なさらなければ。
 それを行の上に表わさなければ駄目です。合楽に御縁を頂いても。そしてあっこれだなと思ったらそれを実行に移さなければいけないです。なら田原さんのお百度がね。すぐ真似してすぐおかげを頂いたとは思われませんけれどもね。それは結果としてはよい結果が出る出ないは別として、おかげを受けたという人の話を聞いたらそれを真似する実行する。どういう心からあぁいうものが生まれて来るかという事を一生懸命研究する。
 そこでなら日々こうやって、朝の御理解を聞いて下さる事は、神様から頂きました事もですけれども、私の信心体験を皆さんに聞いて頂くのですから。それを皆さんの日常生活の上に表わして行かなければ、ここで打ち込んで信心の稽古をしておるとは言えんのです。ただどうぞお取次を頂いて、今日もどうぞこうなりますようにあぁなりますようにの、例えばお願いが成就致したに致しましても、それは十年かかっても二十かかっても、本当に私が心に開いておる幸せは、皆さん頂けないだろうと思います。
 神様は一体なんです。守り守りの力によって神様の比礼が違うのです。だから守り守りの力、という守り守りの内容というものをです。皆さんが体得して下さり勉強してくださり身に付けて下さる事によって、私と同じようなおかげを皆さんがね。皆さんがみんな金光様の先生にならなんち、言う事じゃありませんよ。それぞれの立場でです。それをお互いの御用仕事の上に表わしておいでおられるならばです。家庭も円満になるでしょう。お金にも不自由しなくなるでしょう。
 健康管理もちゃんと出来てくるようになるでしょう。それをならいわば簡単に合楽理念にまとめて、皆さんおかげを頂かなければいけないというふうに言うのですから、本気で日々がね。合楽理念の実験実証にね。取り組まなければいけないという事になります。神様は打てば響くようにおかげを下さる、けれどもいくら打っても音も出ないような打ち方では駄目です。
 どうすりゃおかげ頂けるやろか、じゃなくてです、ね。どうすればおかげ頂くじゃろかじゃなくて、どういう信心をすればおかげを頂けるじゃろかという、そのどういう信心を皆さんが探ってもらう求めてもらう、自分の身に付けていってもらうでなからなければです。おかげにならんね。いうならば合楽の数倍も御比礼を頂いておられる、いうならば泉尾の事を聞く。
 たぶんあそこはふのよかったいとは思わん。どういういうならば泉尾の先生の御信心から、あれだけのものが生まれてくるか。いうならその信心をいつも。分からして頂こうと私は精進今でもしておる。そしてもしなら先生が、こういう信心をすりゃおかげになるばいと言ような事をおっしゃったら、早速私は実行する事でしょう。絶えず求めてやまないいうなら心。それもおかげを求めるのではない。信心を求めるそこから銘々に力が付くんです。
 ここで音声が途絶えた。

  以下は文字化が出来ておるのだが。
 おかげが受けられない。私の生き方をどれほど一生懸命本気になって、それに取り組んでおるか、という事を一つ思うて見て、成程おかげを一生懸命求めておるけども、親先生の信心の、どこからあれが生まれてくるのだろうか、と本気で思うた事も行じた事もない。それではいつまで経ってもおかげは受けられんと。本当のいわゆる私が受けておるようなおかげにはならない、という事でございます。
   どうぞ。